長命寺(ちょうめいじ)は、滋賀県近江八幡市にある寺院。山号は姨綺耶山(いきやさん)。西国三十三所第三十一番札所。天台宗系単立。聖徳太子の開基と伝える。

琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。

伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である。

長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正13年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

寺は近江八幡市の市街地の北方、琵琶湖岸にそびえる長命寺山の頂上近くの南側山腹にある。この地は1951年に当時の八幡町に編入されるまでは蒲生郡島村であった。長命寺山の東側には大中之湖干拓地が広がり、干拓以前の島村は文字通りの島であった。長命寺山の麓の船着場は安土への水路(長命寺川)の入口にもあたり、交通の要衝でもあった。

長命寺本堂へは、湖岸から「八百八段」と呼ばれる石段の参道があり、登りには約20分を要するが、現在は本堂近くまで自動車道も整備されている。石段下の右には穀屋寺、左には日吉神社がある。穀屋寺は、かつて寺領から上がる米を納めたところである。石段途中に冠木門があるのみで、山門はない。石段の途中左手に妙覚院と真静院、さらに上ると右手に禅林院、金乗院があるが、元禄5年(1692年)の記録によると、当時は上述の4か院を含め19の子院が存在した[2]。石段を登りきったところが本堂の縁下である。南に面した境内には本堂のほか、右方に三重塔と護摩堂、左方に三仏堂、護法権現社、鐘楼、やや離れて太郎坊権現社がある。主要堂宇は屋根を瓦葺きでなく檜皮葺きまたはこけら葺きとしており、独特の境内風景を形成している。本堂裏の「六所権現影向石」をはじめ、境内各所に巨岩が露出しており、かつての巨石信仰の名残と考えられている。

本堂(重要文化財)

本堂(重要文化財) - 入母屋造、檜皮葺き。桁行7間・梁間6間の和様仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。寺の文書から室町時代・大永4年(1524年)の建立と判明する。手前の奥行3間分を外陣、後方の奥行3間分を内陣及び後陣とする。内陣須弥壇中央には秘仏本尊を安置する厨子を置き、厨子外の向かって左に毘沙門天立像(重要文化財)、右に不動明王立像が立つ。厨子も堂と同時代の造営で、重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
三重塔(重要文化財) - 本堂の東方、やや小高くなったところに建つ。高欄擬宝珠銘から慶長2年(1597年)の建立と判明する。こけら葺きで全面丹塗(にぬり)とする。和様の一般的な三重塔であるが、初重の両脇間に連子窓を設けず板壁とすること、初重に和様には珍しく腰貫を用いる点が特色である。初重内部は須弥壇を設け、胎蔵界大日如来像(桃山時代)と四天王像(鎌倉時代)を安置する。大日如来像は像底の銘から天正17年(1589年)、七条大仏師康住とその子の大弐の作とわかる。
護摩堂(重要文化財) - 本堂と三重塔の間に建つ宝形造、檜皮葺き、方三間の小堂。屋根上の露盤の銘から慶長11年(1606年)の建立と判明する。
三仏堂 - 本堂のすぐ西側に建つ。入母屋造、檜皮葺き、丹塗の堂。永禄年間(16世紀半ば)頃の建立と推定されるが、江戸時代の寛政5年(1793年)に改造されている。堂内に釈迦・阿弥陀・薬師の三仏(いずれも立像)を安置する。
護法権現社 - 三仏堂の西に、短い渡り廊下を経て護法権現社の拝殿がある。拝殿は入母屋造檜皮葺きで、隣の三仏堂と同じく永禄8年(1565年)頃の建立と推定される。奥にある本殿は一間社流造で江戸時代後期の建立。長命寺の草創説話にかかわる武内宿禰を祀る。
鐘楼(重要文化財) - 境内西方の高い位置にある。入母屋造、檜皮葺き、重層、袴腰付きの鐘楼。上棟式の際に用いられた木槌に慶長13年(1608年)の銘があり、建立年次が判明する。内部の梵鐘は中世にさかのぼるものである。
如法行堂 - 勝運将軍地蔵尊・智恵文殊菩薩・福徳庚申尊安置
太郎坊権現社 - 鐘楼のさらに西方にある、長命寺の総鎮守である。ここに祀られる太郎坊とは大天狗の名で、寺の縁起によれば、後奈良天皇の時代に長命寺にいた普門坊なる超人的力をもった僧が、寺を守護するため大天狗に変じたものという。

「千手十一面聖観世音菩薩三尊一体」、つまり、千手観音、十一面観音、聖観音(しょうかんのん)の3体が長命寺の本尊であるとされている。本堂内陣の厨子には、中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置されている(いずれも重要文化財、秘仏)。千手観音像(像高91.8 cm)は一木割矧造、素地截金仕上げで、平安時代末期、12世紀頃の作と推定される。十一面観音像(像高53.8 cm)は、千手観音像より古い10世紀ないし11世紀の作と推定され、こちらが当初の本尊であった可能性もある。聖観音像(像高67.4 cm)は鎌倉時代の作と推定される。これらの像を安置する厨子は前の間と後の間に区分され、後の間には地蔵菩薩立像と薬師如来立像を安置する。

西国三十三所巡礼に関する確実な史料で最古のものとされる『寺門高僧記』所収の行尊の巡礼記(11世紀末頃)では長命寺の本尊を「三尺千手」としており、同じく『寺門高僧記』所収の覚忠の巡礼記(応保元年・1161年)では本尊を「三尺聖観音」とするなど、古い時代に本尊が入れ替わっていることが記録から伺える。

これらの観音像は厳重な秘仏とされ、平素は公開されていない。西国三十三所観音巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌を記念して2008年から2010年にかけて、西国三十三所の各札所寺院で「結縁開帳」が行われることとなり、長命寺の本尊3体は2009年10月1日から10月31日の間、開扉された。これは1948年以来、61年ぶりの開扉である。

三重塔(重要文化財)

重要文化財
・本堂(附:厨子) - 大永4年(1524年)
・三重塔(附:棟札3枚) - 慶長2年(1597年)
・鐘楼(附:上棟用木槌、棟札2枚) - 慶長13年(1608年)
・護摩堂 - 慶長11年(1606年)
・絹本著色紅玻璃阿弥陀像(ぐはりあみだぞう)
・絹本著色勢至菩薩像
・絹本著色釈迦三尊像
・絹本著色涅槃像
・木造千手観音立像 - 平安時代
・木造地蔵菩薩立像 - 建長6年(1254年)栄快作(奈良国立博物館に寄託)
・木造毘沙門天立像 - 平安時代
・木造聖観音立像 - 鎌倉時代
・木造十一面観音立像 - 平安時代
・金銅透彫華鬘(こんどうすかしぼりけまん)1面 - 寛元元年(1243年)銘 附:金銅透彫華鬘5面

滋賀県指定有形文化財
・長命寺文書5475点 - 「楽書誤証文」などを含む、2008年7月23日指定
・三仏堂
・護法権現社拝殿

JR近江八幡駅より近江鉄道バス20分長命寺下車、石段を徒歩20分


所在地
滋賀県近江八幡市長命寺町157

宗派
天台宗系単立

本尊
千手観音、十一面観音、聖観音(全て重文)

開基
伝・聖徳太子