岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。山号は高雄山(こうゆうざん)。院号は報恩院。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は行基と伝える。アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる。

岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、文化的にも南都の影響が強い。近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。当地は中世には、南都(奈良)の寺院の世俗化を厭う僧たちの修行の場となっていた。

岩船寺の創建事情は明らかでないが、行基による創立を伝え、前身寺院は現在地の南方の鳴川(現・奈良市東鳴川町)にあったという。近世の縁起によれば、岩船寺は奈良時代、聖武天皇の発願により行基が鳴川の地に建立した阿弥陀堂がその前身であるという。創建年次については天平元年(729年)とも天平勝宝元年(749年)ともいう。鳴川にはその後空海(弘法大師)が善根寺(鳴河寺)を建立。空海の甥であり弟子でもあった智泉が、嵯峨天皇の皇子誕生を祈願して、善根寺の東禅院灌頂堂に報恩院を建立したという。その報恩院を弘安2年(1279年)に現在地に移し、同8年(1285年)に落慶供養を行ったのが岩船寺であるという。以上の伝承はそのまま史実とは考えがたいが、『弘法大師弟子伝』(貞享元年・1684年成立)には、大同年間(806 - 810年)、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が皇子の誕生を祈願して報恩院を建立し、智泉が呪願(願文を読む僧)を務めたとある。

岩船寺本尊阿弥陀如来坐像の像内には天慶9年(946年)の銘があるが、この像が当初から岩船寺の本尊であったという確証はない。「岩船寺」の寺号の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、そこには弘安10年(1287年)の年記とともに「於岩船寺僧」の文字がみえる。この年号は、上記寺伝にいう岩船寺落慶供養の年(弘安8年・1285年)に近く、鳴川にあった「報恩院」がこの頃現在地に移った可能性を示唆している。

現存する三重塔は室町時代の嘉吉2年(1442年)の建立である。江戸時代には浄瑠璃寺と同様、興福寺の末寺であった。

本堂 - 昭和63年(1988年)に再建された建物で、平安時代の阿弥陀如来坐像が安置されている。
三重塔(重要文化財) - 室町時代の嘉吉2年(1442年)に建立された三重塔で、初重の内部には来迎柱を立て、須弥壇と来迎壁を設ける。
十三重石塔(重要文化財) - 13個の笠石を積み重ねた高さ6.3mの十三重塔。鎌倉時代。
五輪塔(重要文化財) - 鎌倉時代
石室(重要文化財) - 花崗岩製。奥壁には不動明王像を刻み、手前左右に2本の角柱を立て、これらで寄棟屋根を支える。応長2年(1312年)の銘がある。

なお、境内の裏山には白山神社と春日神社の社殿が並んで建ち、向かって左の白山神社本殿は重要文化財である(室町時代建立)。

十三重石塔

重要文化財
三重塔
・十三重石塔
・五輪塔
・石室(不動明王立像)
・木造阿弥陀如来坐像

岩船寺の本尊で、定印を結ぶ阿弥陀如来像である。本堂に安置。像高284センチ。明治期の修理の際に、像内に多数の墨書が発見され、その中に「□□九年丙午九月二日丁丑」と読める墨書がある。年号の部分は判読不能だが、「□□九年」が丙午、「九月二日」が丁丑にあたるのは天慶9年(946年)であることから、同年の作と判明する。10世紀の在銘基準作例として貴重である。像高2.8メートルを超す坐像の頭・体の根幹部を一材から彫出する。太造りの体躯や一木造の構造は平安初期彫刻に通じる要素だが、衣文は彫りが浅く図式的な平安後期の作風に近づいており、平安前期から後期への過渡期に位置する像である[3]。

・厨子入木造普賢菩薩騎象像 - もと三重塔に安置。像高39cmの小像で平安時代後期の作である。

・JR大和路線加茂駅より奈良交通バスで15分、「岩船寺」下車、徒歩1分
・JR奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス「岩船寺口」下車、徒歩25分


所在地
京都府木津川市加茂町西小札場40

宗派
真言律宗

本尊
阿弥陀如来(重要文化財)

開基
行基


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